2011年10月31日月曜日

「たまごろも」公演終わる

一昨日、天気にも恵まれて、「たまごろも」の公演、良かったんじゃーないかしら。
永運院では、何回も踊ってきているけれど、デザイン(意図)と、即興性が、今までの中で、一番バランスが良かったかもしれない。
来てくれた人も、多くの人が喜んでくれた。(まあ、不評な人の声は、なかなか、入ってこないものだけど)
でも、やはり、永運院のお寺はいいなぁー。外の空間にも開かれていて、演者も、観客も、より大きいものに包まれているような場所。
風や、周囲の物音が排除されずに、柔らかに入ってくる。ヘリコプターの音や、拍子木の音まで、違和感なく、作品と、身体を通り過ぎる。最後、ダンサーが衣を持って、捧げるシーンで、能管の笛の音に、これ以上ないようなタイミングで、遠くで鐘の音が響いた時は。「うわーきたぁ」と心の中で叫んでしまった。
今回の、公演。 お寺、着物、琵琶、能管と、本当に「和」でした。
私の踊りの、和的な部分をあらためて、感じる機会にもなった。
呼吸、間、勢い、簡潔さ等など。

2011年10月22日土曜日

たまごろも

ダンス&ミュージック
  「たまごろも」


魂衣・・・ 人は何を纏うか。


土と水が風にひらかれ、
人の手から手へ
肌から肌へ
記憶から記憶へ
木霊となり、人をつつむ


公演日 2011年10月29日(土曜日)
       16時開場 16時30分開演
       終演後、小一時間、お客様と作品展覧、作者、舞い人との茶話会

会費    前売り 一般2500円 学生1500円
      当日  一般3000円 学生2000円 
      (会費の一部を東北の震災義援金にお送ります。)
場所   京都・永運院 本堂、方丈、庭 〒606-8331 京都市左京区黒谷町33
舞う人   森美香代、ハイディー S
ダーニング、由良部正美

音楽    片山旭星(筑前琵琶) 野中久美子(能管) 星野圭祐
チラシデザイン 相模友士郎    
写真撮影  吉村 勉  
美術    高橋裕博
会場設営その他  水谷米博 土肥真司 大亦康雄
主催   まるもっこ
共催   「PAN(パフォーミング・アーツ・ネットワーク)」

問い合わせ・申し込み  まるもっこtel090-8149-1638,fax 06-6692-2722
               メールアドレス 
pan_kyoto@hotmail.co.jp





2011年10月15日土曜日

久しぶりのダンスの観覧2

笠井叡 振付け 「血は特別なジュースだ」を見てから、京都芸術センターで、きたまり作・演出の
「ちっさいのん、おっきのん、ふっといのん」をみる。

3人の個性溢れるキャラクターが、今年の初めから交わしたブログでの言葉がテーマで、踊りながらしゃべる、しゃべりながら踊る。
音楽や物語のことばではなく、踊りながらしゃべるというのは、現代ダンスでは、けっして珍しいものではないけれど、一時間以上、ほぼ、それをテーマに繰り広げられ、あらためて、踊りと言葉について、考えさせられた。
私も、言葉と共に踊ることは多々あった。セリフをしゃべって踊ったり、何語かわからない言葉をしゃべりまくり踊ったり、客と言葉でからんだり、ミュージカルで歌ったこともあった。それに、特にしゃべったり、歌ったりしなくても、踊っているときに言葉は、常にあるし、日常の中でも生きている限り、途切れる事がない。もしかしたら、死んだ後も。
私達のからだの中に言葉はとても深く浸透しているので、踊りと言葉について、あらためて考えてみても、とても見通せない。
しかし、次の事は確かだと思う。
踊りと言葉、さらにはからだと言葉の関係の全体を見通すには、言葉のない状態、つまり沈黙の中に入る必要がある。ここで言う沈黙は、言葉の対極、反対語ではなく、言葉を超えたもの、又包んでいるものとして、使っているのだけれど。
しかし、「沈黙の中に入る」 といってみても、それができれば苦労はないわね!という事になる。
実際、私はこの沈黙の中に入った経験も実感もない。しかし、私の中にそれはないのかというと、そうではない。それは常にあるともいえる。

さて、一応それをおさえた上で、今日見た公演で感じた事を手がかりに、一歩ずつ、踊りと言葉について考えてみたいと思う。

きたまりの公演では、言葉を使うことが、新たな奥行き、ハーモニーを生み出す事よりも、むしろ、実際のブログでの言葉や自己紹介などの言葉で、舞台空間を壊す効果に使われていたと思う。まったく素の状態で話すシーンであったり、着替えを、半分見せるシーンでもよく表れている。
私も使うことがあるが、舞台空間で、踊るからだが話し始めることで、観客は、内的な特別席から素の状態、演者と一つの板の上に置かれる。舞台は、観客に、イメージ等を生み出す場であるが、同時に観客も、演者も身体を持ち、一つの厳然とした空間にいるという単純な事実を喚起される。

それと、アーティストにかぎらず、人は誰でも、内的志向性を持っているが、その中で、排除されるものがある。人は、誰でもこうあるべき、こうしたいという、願望、価値付け、判断等により、いわば、自我空間を持つけれど、それは常に脅かされているし、圧迫感がある。時にアーティストは、この内的志向性、自我空間を壊し、排除されたいわばノイズに関わる必要を感じる。そこは、様々な言葉、記憶、知覚、音の断片がものすごいスペードで飛び交っている場である。時に人はそのようなノイズ空間にいることで、奇妙な落ち着きと他者との一体感を感じる。そのノイズ空間は、我々が生きている現在の社会そのもののようにも感じる。

以上のような感じが、きたまりの公演だけでなく、笠井さんの公演の基底にあったように感じるし、現代芸術の多くにも通じていると思う。
勿論、それだけではなく、今日の公演の中では様々な面があったのだけれど、私は舞台批評をしたいわけではないので、舞台の印象から少し離れて、言葉とからだについて考えてみたいと思う。

いったい言葉は、どこまで深く私達のからだに、浸透しているのか。
私は、それは、どこまでも深く、私達の生=性の源までと断言してみたい。
一般に言葉は、人間の上部構造で、本能とは別のものと考えられている。フロイト派の心理学者等は、言葉は本能を抑圧するものととらえているし、ある人は、人間とは本能が壊れた存在と言っている。
一面、そのとうりだと思うし、確かに、言葉はなくても人は生存できるだろうから、生命にとって必要不可欠なものではない。
しかし、私は人が言葉を求めるのは、いわば、本能を超えた本能のように思える。
ここでいう、言葉とは、人の身振り、眼差し、行為も含んだ、刻々に言葉を創造する純粋なエネルギーの事をいう。それは、叡智とも、ロゴスともよばれている。
人は、生まれてから、両親や周りの人から、雨のような叡智をからだに浸透させてきた。 
人は、この雨のような叡智の養分なしに、人として立つ事ができない。
赤子は、乱雑な大人の無意識的言葉かけにも関わらず、驚異的な吸収力で叡智を見分け、からだに浸透させる。わずか、1歳半ほどの子供が、例えば「お母さんの」、「お父さんと」、「おじいちゃんも」、「おばあちゃんに」 などの複雑な助詞の使い分けができるようになる。
人は、生き方や知性がその人の相貌に微妙に浸透するように、この叡智も、からだに深く浸透する。
ここで、私は、ある本で読んだとても興味深い話をしたい。事あるごとに、もう色々な人にはなしたことだけれど、次のような話だ。
狼に育てられた、人の話が何件か報告されている。その報告を引用する形で、ある人が書いていた。

狼や動物にに育てられ、その後救出された中で、たとえば、3歳で救出された場合、5歳で救出された場合、10歳で救出された場合で、回復可能性、言語の取得可能性が、全然違う。そして、10歳前後で救出された場合、言語の再取得は不可能で、それだけでなく、性的能力がまったく萎縮してしまっているということ。これを、引用者はまったく私とは違う解釈をしていたが、私はこの話をとても興味深く思い、次のように解釈した。
すなわち、人は、世界にまったく開かれているある時期に叡智に浸透された言語を受け取る必要があり、本来、言葉は、人間の最も奥深く、生命の創造である、生殖力を目覚めさす事にまで及びと。そして又、性は人にとって、ただ単に本能の発露ではなく、叡智に浸透された言葉の開花でもあると。
このような解釈には、様々な反論の余地があるだろうし、そもそも、狼に育てられた子供という報告の信憑性には、疑問だと思う方もいると思うが、私は、言葉は、本当に人の生=性を目覚めさす源だと思っている。

さて、今私は、こうして窮屈に言葉を連ねているわけだが、ここで言う言葉は、世界に向けて差し出された手であり、器でもあり、又光でもあるもので、普通私たちがいう言葉は、その痕跡にしかすぎない。
例えば、「あー」という言葉と「おー」という言葉でただ単に、声を出すだけでなく、世界を受け取る器のようにも、世界に向けて放たれる光のようにもして、外に向けて発してみると、それぞれ、まったく違う世界が開示されるように感じられ、認識でもあり、創造でもあるなにかを感じると思う。

さて、私は言葉とからだについて、途中からかなり飛躍のある事を言っている事は、自覚しているし、ある予感めいた感覚で言っているのは確かだ。これらの事をすべて見通して、言っているのではない。本当に見通して言うためには、沈黙の場から語らなければならないだろう。

さて、最後にもう一度、踊りの場に戻して、言葉と身体の事を見てみたいと思う。
つづき。
(うーん、一気にここまで、書いたけれど、ここからが大変。書くべきことは見えているのだけれど、
言葉に定着させるのは、かなり苦痛。明日になるか、一年後になるかちょとわからない。でも、とても大事なこと)

2011年10月12日水曜日

久しぶりのダンス観覧 1

昨日は、久しぶりにダンスの公演を見に行きました。それも一日に二つも。
なんとなく、劇場空間にしばらく行かなかったのですが、やはり、そこは、不穏な空気が流れているところです。

笠井叡 振付け作品 「血は特別なジュースだ」
予想どうり、作品というより、笠井さんの独壇場。
20年ほど前から、折に触れ、笠井さんの踊りは、見ているけれど、基本的な印象は、変わらない。
驚くべき動きの正確さと、おもちゃ箱をひっくりかえしたような乱雑さ。
顔の筋肉を、手足と同じように常に動かし、内側からの発声力を四肢に伝え、波動を、劇場中に放射する。
劇場にただ一人、不敵に立ち、鏡の中の自己の像のように、観客一人一人を射抜いているような眼。
時間の中で開花するようなものはなく、生成されたエネルギー、フォルムは瞬時に捨てられ、なにかと闘っているようにも、逃れているようにもみえる。

しかし、今回というよりも、笠井さんの踊りを見てきて、じょじょに、エネルギーやフォルムが瞬間に形成される力が後退し、なにか、不定形な情動のようなものがでてきているように感じる。
劇場宇宙の中で、屹立するような意志が、なにかに呑みまれていっているようにも感じるのだけれど、笠井さん自身は、そのように感じているのだろうか。笠井さんは、何処に向かっていこうとしているのだろうか。
私は、少し不安なものを感じる。

笠井さんの踊りを見ていて、舞台上での他のダンサーとの共演をほとんど不可能に感じるし、舞台作品として見る事も不可能に感じる。
笠井さんは、舞台で観客を鏡として、対峙しているように感じる。鏡が映す像や、イメージに囚われる事を嫌い、鏡に切りつけ、振り切り、見返し、破壊する。そのような中では、舞台上での他者の身体も一つの鏡の像にすぎない。
しかし、笠井さんは、そのよう事を、踊りを始めて以来、ほとんどずーと続けてきている。
驚くべき、執拗さ、情熱だ。
過去、笠井さんの踊りを見てきて、時々、鏡をつき抜け、雲ひとつない青空で、大地で、無心に踊る無垢で、無名のからだを目撃したようにも記憶する。