2011年8月29日月曜日

第5回マンスリーダンスセッション


前回の第4回目のリーラ、今までと又違った感触がありました。身体と身体がある親和性を持つのと反対に、拡散していく力をより感じました。結んでいくより解いていく力、フォルムより素材、音楽より音、からだよりオブジェ、そんな感じであった様な気がしました。物質への郷愁とでもいいましょうか、やはり、私達のからだに奥深くある衝動の一つのようにも思います。
 
さて次回はダンサーのヤザキタケシさんをゲストに迎えました。ご存知の方も多いでしょうが、ヤザキさんは関西のコンテンポラリーダンスシーンを長くリードしてきて、上質のエンターテイメント性としっかりとしたコンセプトを持ったダンサーです。古くからの知り合いで、何度か共演もさせていただいた仲ですが、忙しい中、一緒にダンスセッションを遊んでくれる事になりました。久しぶりの彼とのセッション、本当に楽しみです。いつの間にか、お互いR50の年となりましたが、踊り、身体への知覚、眼差しは、より深まっていると思います。上質の酒のように、身体で蒸留された幻が、味わえると思います。

2011年8月26日金曜日

甲谷さんとの対話

2006年の春、甲谷さんとの病室での文字盤での対話。これ以降、会話が難しくなり、突っ込んだ対話はこれが、最後となりました。病状、死、性、苦など、応えにくい事について、驚くほど、率直に語ってくれました。




「体が動かなくなるというのはどういう感じか?からだと分離して、からだが鏡のように感じられるのか?」
-鏡というのはいい喩え-

-感情が、景色のように感じられる。
感情失禁がつらい。

「感情が、まわりにいる物が感じる、泣いたり、笑ったりしているように、肉体的現象として顕われるものの他に、私達が感じられない、感情があるけれど、肉体的現象の感情のみを見られて、それを甲谷さんの感情と思われる事がつらいと言う事か?」
そう-
「感情がいわば、層のようになっていると言う事か?
-そう-
「その、層のようになっている感情のいわば、表面の笑ったり、泣いたりする部分を、
違う生き物のように眺めている感じなのか」
-いや、端的に言うと、他人との境目が外れたような感じ-
「それでは、より深い層の感情はどんな感じなのか」
-私の感情ではなく、私たちの感情に近づいていく-
「表面的感情も境目が外れてといったが、それは、私達の感情ではないのか。その違いは」
-海のように、表面は波があり、動いているが、底のほうは静かな感じ。-
3月はじめに、精神的につらいとホームページにあったが、何が辛かったのか」
-やはり、死の問題-
「それは、話す事ができないと言う孤独と言う事も関係あるか」
-まあ、それは副次的な問題で、やはり死と向き合わなければならないと言う事-
「その死は個人的な恐怖のような感じか」
-もちろん、肉体的には個人的だが、全人類の死の感じ-
「周りは、どう感じ、見えるか。例えば、散歩している時、風を感じ、花を見るとき」
-瞬間、瞬間ある物が顕われ、消えて、又あるものがリアルに顕われるような感じ-
「それは、蓄積や、所有と言う事がなくなってきたからそうなのかもしれないね。」
泣く。
「死に向き合うというのは、完璧に無所有になる過程かもね」
   泣く。
「今、一番楽しみは、散歩、マッサージ。・・・」
-いや、人との縁が広がる事-

「色々な人のマッサージを受ける訳だけど、その感触は体の中に残っているの。
-そう-

「あなたは、性的な衝動を感じる事がありますか」
-ほとんどない-
「性的な衝動は、何か違う物に変わったのか」
-愛や慈悲と言うようなものに変わったような感じ-
「それは、性的な衝動とは、まったく違う物と言う感じなのか」
-いいや、それが変容したというかんじ-
「それは、普通性的な衝動は、自然なはけぐちに、流れ、解消されるものだが、
それができない場合、それは、イマジネーションを活性化し、知覚が生き生きとした物に
なるという感じか。
-そう-
「性的な衝動は、善にも、悪にも結びつくと思うが、その分かれ目は何か」
-人はSEXを問題とするが、愛というものを知ろうとしない-

「性的衝動には一種の性急さのようなものがあるけれど、愛にはそれがない」

ALSになって、性的な感覚が変わった、事は、具体的な転機のようなものがあったのか」
-1人の種子の中に、全人類を感じた-
「種子?」
-女-
「以前から、瞑想等をやってきて、そのような体験、認識はある程度あったと思うが、
今は、何が違うのか」
-苦の体験-
「苦というのは、普遍的なもので、人はそれから逃げられないということか」
-そう、甘かった-
「それが、人が、肉体と言うものを持った意味?」
-そう、それが創造-

2006年最初の甲谷さんの個展

2006年2月、病床でパソコンで作製した絵の個展の終わったのちの報告です。ALS
近畿ブロックの冊子にも掲載されました。

「一畳百色」 
甲谷匡賛作品展 ALS(筋萎縮性側索硬化症)の病床から~を終えて
                                          先月の117日~23日の6日間、上記の個展を開くことができました。会場は京都の町屋風の小さなギャラリーですが、会場には、延べ500人以上の方が来場して、ギャラリー会場というより、繁華街のショップのような賑わいでした。これ程の人が来てくれたのには、NHKや地元ラジオ、新聞など、様々なマスメディアが、取り上げてくれた事も大きいのですが、病床の甲谷さんを支える支援者の口コミの力、長年の彼自身の幅広い交友、そして、作品自体の力に起因していたと思います。
甲谷さんは、3年前にALSを発病、1年半ほど前から、転院を繰返しています。「甲谷さんの支援と学びの会」ができたのは、去年の6月の事でした。それまで、私達友人は、時々、お見舞いに行くぐらいで、「なにか、難しそうな病に罹っているようだ」ぐらいにしか、感じられていませんでした。私自身もALSという病名を聞いても、もう一つピンと来なくて、日々病状が進行するのを遠くで見守る事しかできませんでした。
彼は指圧の療術院を開業していて、からだについては、人一倍敏感でした。彼がしているような東洋医学は、西洋医学のように、体を二元論的対象としてとらえるのではなく、関係性としてとらえるので、人のからだを施術するのに、自分自身のからだについて注意深くある事は当然の前提でした。それで、自分自身のからだの異変については、ずいぶん前に気づいていたようです。時々、「最近、どうも疲れやすい」とか、「本当は、僕自身が診てほしいんだけど」などと冗談まじりに洩らしていたのを思い出します。
私と彼との交友の始まりは、17年程前にさかのぼります。私はダンスをしていて、(ジャンルとしては、現代舞踊という事になるでしょうか)生計の為の、ビルの窓拭きのアルバイトで、彼と知り合いました。彼も、指圧の療術はしていましたが、まだ、それのみで食べられなかったのです。お互い「からだ」を見つめる事をしてきた同士なので、親しくなるのは、自然の成行きでした。仕事場で、そしてそれ以外でも、毎日のように、様々な事を話し、討論し、酒を酌み交わしていました。これ以上何も話すことが無いというほどに何回もなることもあるのですが、それでも話していました。お互い妥協できない性格だったのです。  
彼は、ヨガや、武道、又様々な瞑想などにも秀でていて、いつも「からだ」ということを彼の思想性の中心に持っていました。指圧という一種の治療行為も、治す側、治される側という狭い関係性のみではなく、もっと広い関係性を求めていました。最後に話が及ぶのは、社会全体の、私達全員の関係性の病そのものでした。ここまで行くと、ある種の宗教性を帯びてきます。実際彼は、幅広い宗教についての関心がありました。
誤解を恐れずいうならば、これは、例えばオウム真理教等が出てきた背景にも繋がるものがあるかもしれません。彼等も現代の社会全体の病から抜け出したいと願い、その為に自分自身のからだを変容する事を手段としたのですから。しかし、彼は集団性や権威という事には,はっきりと否定的でした。そして、それらに変わって人を結びつける手段として、芸術を考えていたと思います。彼は、私の舞踊についても、いつも客観性を求めていました。それが、私自身の気持ちや表現を超えて、どのような認識に開かれるのか、現代にとってそれがどのような意味を持つのかを、いつも問われました。その事は、今も、私にとって変わらず大事な問いかけとして残っています。
そんな彼が、今ALSという病に罹っています。なにか信じられないという気持ちと同時に、これほどまで、からだに意識的であった甲谷さんが、このように、日々自由が利かなくなるからだと面と向かわなくてはならないとは、運命が与えた、新たな試練なのかとも思ってしまいます。ある未開部族のシャーマンのイ二シエーションで、死体と抱き合って三日三晩地中に埋められるという儀式があるそうですが、彼も同じような試練を通過して、からだに対しての究極の知恵を獲得して、蘇るのかとも夢想してしまいます。
しかし、現実のALSはとても厳しいものがあります。それを最初に「ALS・不動の身体と息する機械」-立岩真也著を読んで初めて知りました。この本には、様々なALSに関する実状、厳しい介護、周りの家族、医療現場と呼吸器の選択の事などが書かれていて、深く考えさせられました。
そこで、私は、私達友人にもできる事はないかと考え、共通の友人に呼びかけました。まずできる事は、支援という大げさなことではなく、遠くで見守っていた輪を少し縮めて、それを甲谷さんが見えるような輪にして、甲谷さんが繋がりを実感してもらえればという事でした。そこで、まずはマッサージをしようという事になりました。からだを動かせず、痒いところもかけないALSの患者にとって、からだをさすってもらい、触れ合うという事がとても重要だと思ったのと、マッサージならば、誰にでも、それなりのやり方で危険なくできると思ったからです。そのような活動を通じて、「甲谷さんの支援と学びの会」が出来上がりました。
しかし考えなければならない事がいくつかありました。一つは、会としてどこまで介護に関わるのかということです。実際、マッサージだけでも良いとしながらも、現実に甲谷さんを目の前にすると、様々な事をするようになってしまいます。それをどこまで、できるのか?個々の判断に任せるべきなのか?会として、判断すべき事なのか?そして、我々の行為が、本人や家族の選択に影響を与えるのではないか?その場合、どこまで責任がもてるのだろうか?次々と難問が浮かんできます。
今、この事は、変わらず、問題としてあり、試行錯誤が続いています。家族でもない者がALSに関わる事は、容易ではない事だと改めて思います。しかし、このようなナイーブな問題を、家族というブラックボックスに丸投げでいいとは思えません。僭越な行為は慎まなければならないとは思いますが、やはり友人は友人として、できる事を模索する事は必要な事だと思います。
現在の甲谷さんの病状は会話不可、四肢・体幹機能ほぼ全廃の状態ですが、精神的には安定しているように感じられます。又時折みせる笑顔はとても輝いていて、私達をほっとさせてくれます。なにより、今の状態を前向きにとらえていて、病床で唯一動かせる左手で、パソコンにより絵を描いたり、日記やメールを書いたりしています。
それで、それらの絵や言葉をもとに、個展の開催となったのですが、これらの絵は、最初、純粋に自分自身の心の不安、葛藤等に向き合い、見つめてきた事の中から生まれたもので、人に観てもらいたい、評価してもらいたいという気持ちから描いたものではありません。その為、いわゆる作家の作風のようなものがなく、個々の作品がそれぞれの趣があり、ある時は不安を、ある時は混乱を、ある時は希望をストレートに表現しています。
今回の個展では、10代から90代まで、様々な年代の方々が観に来られました。そしてたくさんの方がその感動を伝えてくれました。それは、生きることそのものに対しての感動のように感じました。甲谷さんは、ほとんどすべての事を人に頼らなくてはできない状態です。しかし、そのような状態でも、燃えるような生があります。人は人生において、何をしたかよりも、どう在るかがより大事な事だと思います。そのような意味も込めまして、
個展のタイトルを「一畳百色」としました。
 最後にALS協会に御礼を述べさせて下さい。協会から寄贈されたパソコンで、甲谷さんは、絵を書く事ができました。その他、様々な事を教えていただきました。どうも、ありがとうございます。私たちの会は、まず身近な友人の支援からという事で始まっていて、
まだ、協会の活動等には何も、お力になれなくて申し訳ないのですが、これからも、どうぞ宜しくお願いいたします。
                 甲谷さんの支援と学びの会 世話役 由良部正美
             





甲谷さんの言葉

甲谷さんが、ALSを発症し、割と初期の頃に綴っていた文章を纏め、2006年の2月の個展「一畳百色」で、絵と同時に会場で朗読された文章です。




「私」は誰か? who am I ?

実体の無い苦しみに、我執がまとわりつき苦しみは増していく。

 根源の光とひとつになるのだ。それは今ここにおいてすでに実行できるのだ。執着
がその実行を妨げているのだ。

その瞬間を想えば、もう何もすることができないと分かる筈だ。すべてを委ねて、
ただただリラックスしよう。

どこからか風が入ってきている。危機感を煽りすぎてもよくない。

痒いところが掻けないって、かなりの苦痛です。

正に人生は修行やナ。

ゆっくりと病状は進行している。「お変わりないですか?」なんてあいさつする
けど、変わっていく瞬瞬に直面する日々を送っている。

精神的には安定しているが、喋れなくなったことと、フィジカルな面で感情表現が胸の部分でカタルシスとなってブロックをつくっている。なのでたいして悲しくもないのに、大泣きしてしまったりということが時々起こるようになる。

御心のままに  南無阿弥陀仏ある意味、地獄だナ

肉体という苦の花を咲かそう

目に見えてからだが動かなくなるのを体験する日々、さらに死を強く意識することを瞬瞬の課題となる。

 「苦悩は人と人を結びつける。何故なら人は苦悩を避けて生きることはできないの
であり、苦悩こそが他者の視点を得ることに繋がるからだ。苦悩とは最初の恩寵であ
る。」 病気になってからの「気づき」の奥から、この言葉を思い出す。
病気になったコトで学ばされる「気づき」は
大変多い。それまでの日々の数十倍と言っても過言ではない。

偶然などないと古の教えは言います無意味なコトなど無いと無
駄なコトなどないと古の教えは言います。私はこの病気になってそのコトの真実を学んでいる。

アナタ/ワタシ の無意識が、ワタシ/アナタを苦しめる。マダ続くの?モウ イイデズヨ!

タダ生きてるだけ。二度と会えないと覚悟して友を見送る

 これからは帰る場所はもう無いと思って過ごした方が良さそうだ。今こうして病室で丸一日過ごす日々を自分に与えられた場所だと思って生きていくこと。ここでできることは何か? 寝返りが打てず、眠りが断続的になる今日この頃‐‐。

緊張の連続


意識はいつも「今・ここ」

肉体(物質)にとことん下降した自我だからこそ、二元論的(唯物的還元主義的)世界を越えられる特権を手にしているとも言える訳で、その分大変と言えば大変な訳ですが、この時代に生きる我々に架せられた責務じゃないかと思う。
 ぼくの場合は今そのことを病という形で味わっている。苦い味がしますが、最後まで残さず食べつくしたいと思っている。

この病気が私個人の上に起きていることとは思えなくなったのです。正確に言うなら思えなくなったのではなく、「私(だけ)が苦しい」とは感じられなくなったことに寄ります。
 今味わっている苦痛がなんだか「私たちの苦痛」のように感じられるのです。病気になり世界観はどんどん変わっていきましたが、ここにきて更に大きく変わってきた感じがしています。

普遍性(聖なるもの)の探求などといったことには全く関心がなく、ひたすら「私」の快楽の永続を求めて忙しくしている文化…。
 だが普遍なこと(老い、病、死)は確実に、或いは“落雷のように”「私(エゴ)」をヒットする‥。


あぁ..ホンマに苦しくてピアスなんてモンじゃなかった(苦笑..)。胃カメラが入った瞬間、口から串刺しにされたように胴体が数センチ浮いたよ..。☆「く、苦しい~っ!」心の中で叫んでいる内にオペは終わりました。でも痛いのはその後がメインで、数センチ動かしただけで鈍痛がひどく動けない。生まれて初めて座薬を入れてもらって、トイレも行けず尿器でオシッコをしている状態でした(3日めからはトイレになんとか行けるようになりました。看護師さんって偉いですね。心から尊敬します)。
 で、こうした肉体的苦痛は、精神的苦痛とどこが違うのかなぁ?などと考えました。 チベットの言葉には「危険が迫った時にどの程度の修行者であるかがわかる。」という言葉があるそうですが、まったくそれは言えますね(苦笑)。痛みの本当に強い時に、どんな思考が飛び交うかを観ることは自分の力量を見る上で大変役に立ちます。からだが調子いい時に瞑想気分に浸っているのと訳が違って、必死の状態ですることですから嘘がありません。肉体的苦痛の場合にはダイレクトに「今・ここ」での在り方が問われ続けますから(痛みが薄れるまで!)その意味ではとても瞑想的(!)です。「楽しいときには誰でも只楽しんでいる。苦しいときにも只そう在りなさい。」鈴木大拙の言葉を思い出す。

肉体に対する認識は表層的な意味で、ずっとケンコーに生きてきた人には(!)認識し難いものではないかと、今のワタシは考えています。
肉体に捕われ肉体の快感のみにエネルギーを注ぎ込むような生き方をしているようであれば、当然人が肉体をもった意味など認識しようがないと思います。
「弱いが故に強い(からだ)」といいましょうか、そういう身体が心の深い層への認識から立ち上がって来る‥。
実感として今体感しつつあります‐‐。

「あなたが、もしALSになったなら」
皆さんにお聞きしたい質問です。

ニューヨーク大学にあるリハビリステーション研究所の壁に一人の患者さんが
残された詩

大きなことを成し遂げるために、
力を与えてほしいと神に求めたのに
謙遜を学ぶようにと 弱さを授かった

偉大なことができるように
健康を求めたのに
よりよきことをするようにと 病気を賜った

幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと 貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして
成功を求めたのに
得意にならないようにと 失敗を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いは すべて聞きとどけられた
神の意に添わぬ者であるにもかかわらず
心の中に言い表せない祈りはすべて
叶えられた
私は 最も豊かに祝福されたのだ
、、、
谷川俊太郎『やさしさは愛じゃない』より-
私のからだを見て下さい。 でもこれが私じゃありません。 私の心を探して下さい。   でもそれが私じゃありません。  苦しみだけが私です、  苦しみだけがほんとです、 遠くに遠くに神さまはいる、お顔はかすんで見えません、  遠くに遠くに神さまがいる、ひっそりひとりで立っている。  
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2011年8月1日月曜日

第4回マンスリーダンスセッション

前回の第3回目のリーラ、なかなか集中した場でした。そこに居た一人一人が自由でありながら、全体の場を呼吸していたように感じ、まさに、私がマンスリーダンスセッションに期待していたものが現れていたと思いました。ゲストの福本卓道さんに感謝です。
やはり、生音は、違いますね。座る姿勢、そこに感じられる、集中力、勢い、間。尺八の音が私達のからだを吹きぬけて、とても贅沢な時間でした。
終わった後の打ち上げは、時節がら、政治話が主になってしまいましたが、それも一興だったかもしれません。


さて、今回のマンスリーダンスセッションは、うって変わって、若手の音楽家の星野圭祐さんを招きました。
星野さんは、第一回目のリーラに来てくれて、少しピアニカで、即興で演奏してくれたのですが、今回は、ゲストとして、本格的に関わっていただこうという事になりました。
実は、ひょんないきさつから、10月に永運院で行われる、染色作家の高橋さん、ダンサーのハイディさん、森美香代さんとのコラボレーションでの、音楽、空間デザインを
担当してもらう事になりました。これも、このリーラの場がもたらしてくれた縁です。このリーラの場が、様々な縁を生み、結ばれる事にもなればと思っています。