2011年8月26日金曜日

2006年最初の甲谷さんの個展

2006年2月、病床でパソコンで作製した絵の個展の終わったのちの報告です。ALS
近畿ブロックの冊子にも掲載されました。

「一畳百色」 
甲谷匡賛作品展 ALS(筋萎縮性側索硬化症)の病床から~を終えて
                                          先月の117日~23日の6日間、上記の個展を開くことができました。会場は京都の町屋風の小さなギャラリーですが、会場には、延べ500人以上の方が来場して、ギャラリー会場というより、繁華街のショップのような賑わいでした。これ程の人が来てくれたのには、NHKや地元ラジオ、新聞など、様々なマスメディアが、取り上げてくれた事も大きいのですが、病床の甲谷さんを支える支援者の口コミの力、長年の彼自身の幅広い交友、そして、作品自体の力に起因していたと思います。
甲谷さんは、3年前にALSを発病、1年半ほど前から、転院を繰返しています。「甲谷さんの支援と学びの会」ができたのは、去年の6月の事でした。それまで、私達友人は、時々、お見舞いに行くぐらいで、「なにか、難しそうな病に罹っているようだ」ぐらいにしか、感じられていませんでした。私自身もALSという病名を聞いても、もう一つピンと来なくて、日々病状が進行するのを遠くで見守る事しかできませんでした。
彼は指圧の療術院を開業していて、からだについては、人一倍敏感でした。彼がしているような東洋医学は、西洋医学のように、体を二元論的対象としてとらえるのではなく、関係性としてとらえるので、人のからだを施術するのに、自分自身のからだについて注意深くある事は当然の前提でした。それで、自分自身のからだの異変については、ずいぶん前に気づいていたようです。時々、「最近、どうも疲れやすい」とか、「本当は、僕自身が診てほしいんだけど」などと冗談まじりに洩らしていたのを思い出します。
私と彼との交友の始まりは、17年程前にさかのぼります。私はダンスをしていて、(ジャンルとしては、現代舞踊という事になるでしょうか)生計の為の、ビルの窓拭きのアルバイトで、彼と知り合いました。彼も、指圧の療術はしていましたが、まだ、それのみで食べられなかったのです。お互い「からだ」を見つめる事をしてきた同士なので、親しくなるのは、自然の成行きでした。仕事場で、そしてそれ以外でも、毎日のように、様々な事を話し、討論し、酒を酌み交わしていました。これ以上何も話すことが無いというほどに何回もなることもあるのですが、それでも話していました。お互い妥協できない性格だったのです。  
彼は、ヨガや、武道、又様々な瞑想などにも秀でていて、いつも「からだ」ということを彼の思想性の中心に持っていました。指圧という一種の治療行為も、治す側、治される側という狭い関係性のみではなく、もっと広い関係性を求めていました。最後に話が及ぶのは、社会全体の、私達全員の関係性の病そのものでした。ここまで行くと、ある種の宗教性を帯びてきます。実際彼は、幅広い宗教についての関心がありました。
誤解を恐れずいうならば、これは、例えばオウム真理教等が出てきた背景にも繋がるものがあるかもしれません。彼等も現代の社会全体の病から抜け出したいと願い、その為に自分自身のからだを変容する事を手段としたのですから。しかし、彼は集団性や権威という事には,はっきりと否定的でした。そして、それらに変わって人を結びつける手段として、芸術を考えていたと思います。彼は、私の舞踊についても、いつも客観性を求めていました。それが、私自身の気持ちや表現を超えて、どのような認識に開かれるのか、現代にとってそれがどのような意味を持つのかを、いつも問われました。その事は、今も、私にとって変わらず大事な問いかけとして残っています。
そんな彼が、今ALSという病に罹っています。なにか信じられないという気持ちと同時に、これほどまで、からだに意識的であった甲谷さんが、このように、日々自由が利かなくなるからだと面と向かわなくてはならないとは、運命が与えた、新たな試練なのかとも思ってしまいます。ある未開部族のシャーマンのイ二シエーションで、死体と抱き合って三日三晩地中に埋められるという儀式があるそうですが、彼も同じような試練を通過して、からだに対しての究極の知恵を獲得して、蘇るのかとも夢想してしまいます。
しかし、現実のALSはとても厳しいものがあります。それを最初に「ALS・不動の身体と息する機械」-立岩真也著を読んで初めて知りました。この本には、様々なALSに関する実状、厳しい介護、周りの家族、医療現場と呼吸器の選択の事などが書かれていて、深く考えさせられました。
そこで、私は、私達友人にもできる事はないかと考え、共通の友人に呼びかけました。まずできる事は、支援という大げさなことではなく、遠くで見守っていた輪を少し縮めて、それを甲谷さんが見えるような輪にして、甲谷さんが繋がりを実感してもらえればという事でした。そこで、まずはマッサージをしようという事になりました。からだを動かせず、痒いところもかけないALSの患者にとって、からだをさすってもらい、触れ合うという事がとても重要だと思ったのと、マッサージならば、誰にでも、それなりのやり方で危険なくできると思ったからです。そのような活動を通じて、「甲谷さんの支援と学びの会」が出来上がりました。
しかし考えなければならない事がいくつかありました。一つは、会としてどこまで介護に関わるのかということです。実際、マッサージだけでも良いとしながらも、現実に甲谷さんを目の前にすると、様々な事をするようになってしまいます。それをどこまで、できるのか?個々の判断に任せるべきなのか?会として、判断すべき事なのか?そして、我々の行為が、本人や家族の選択に影響を与えるのではないか?その場合、どこまで責任がもてるのだろうか?次々と難問が浮かんできます。
今、この事は、変わらず、問題としてあり、試行錯誤が続いています。家族でもない者がALSに関わる事は、容易ではない事だと改めて思います。しかし、このようなナイーブな問題を、家族というブラックボックスに丸投げでいいとは思えません。僭越な行為は慎まなければならないとは思いますが、やはり友人は友人として、できる事を模索する事は必要な事だと思います。
現在の甲谷さんの病状は会話不可、四肢・体幹機能ほぼ全廃の状態ですが、精神的には安定しているように感じられます。又時折みせる笑顔はとても輝いていて、私達をほっとさせてくれます。なにより、今の状態を前向きにとらえていて、病床で唯一動かせる左手で、パソコンにより絵を描いたり、日記やメールを書いたりしています。
それで、それらの絵や言葉をもとに、個展の開催となったのですが、これらの絵は、最初、純粋に自分自身の心の不安、葛藤等に向き合い、見つめてきた事の中から生まれたもので、人に観てもらいたい、評価してもらいたいという気持ちから描いたものではありません。その為、いわゆる作家の作風のようなものがなく、個々の作品がそれぞれの趣があり、ある時は不安を、ある時は混乱を、ある時は希望をストレートに表現しています。
今回の個展では、10代から90代まで、様々な年代の方々が観に来られました。そしてたくさんの方がその感動を伝えてくれました。それは、生きることそのものに対しての感動のように感じました。甲谷さんは、ほとんどすべての事を人に頼らなくてはできない状態です。しかし、そのような状態でも、燃えるような生があります。人は人生において、何をしたかよりも、どう在るかがより大事な事だと思います。そのような意味も込めまして、
個展のタイトルを「一畳百色」としました。
 最後にALS協会に御礼を述べさせて下さい。協会から寄贈されたパソコンで、甲谷さんは、絵を書く事ができました。その他、様々な事を教えていただきました。どうも、ありがとうございます。私たちの会は、まず身近な友人の支援からという事で始まっていて、
まだ、協会の活動等には何も、お力になれなくて申し訳ないのですが、これからも、どうぞ宜しくお願いいたします。
                 甲谷さんの支援と学びの会 世話役 由良部正美
             





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