2014年3月13日木曜日

甲谷さんとALSドラマを観て

昨日、甲谷さんと、ALSのドラマ「僕のいた時間」を観た。

このドラマは、三浦春馬が主演で、かなり評判になっているらしい。
日本ALS協会も取材に協力していて、少し、綺麗すぎる展開ではあるけれど、ALSに対して偏見のない描き方がされていると思う。
今日観た回は、このドラマの、おそらく、一番のクライマックスであり、又、ALSという病の核心が描かれていたと思う。

三浦春馬演じるALSの病を患う拓人が、いよいよ呼吸筋の麻痺の症状が出てきて、呼吸器を着ける事が、現実的な課題になってきた。恋人のメグと前向きに生きる事を続けてきた拓人だが、ここで、ALSの病の実存的不安に直面する。家族、友人は、呼吸器を着けて、生きる事を願うが、拓人は、黙っているだけである。
夜間、メグとの話。メグも叉、生きて欲しいといい、呼吸器を着けても、パソコンや、文字盤で会話する事ができるからというと、拓人は「じゃぁ、その後は。それもできなくなったら、誰にも意志を伝えられなくなって、痛いことも伝えられなくて、ずーと1人きりで、呼吸器も外せなくなる」 「僕は死にたいんじゃない、生きる事が怖いんだ」とすがるように号泣する。メグは、「私がいる。ずっと傍にいるから。私の為に生きて」 というが、それも拓人の恐怖を消す事はできない。

私は、これを、甲谷さんのベットの傍らで、一緒に観ていた。私は、甲谷さんとの過去の事が思い出されて、胸が熱くなったけれど、甲谷さんは、まったく平静そうで、まるで、違う場所、次元から、そのドラマを眺めているかのようだった。
甲谷さんは、今まさに、拓人が恐れている、ほぼすべての言語的意思疎通ができない状態にある。

甲谷さんの意識は、今どのような状態なのか。何を思い、考えているのか。時々、何ともいえないような思いが湧き上がって来る。
甲谷さんは「呼吸器を着けるか、着けないかは、私の最大の(禅の)公案のようなものです」と言っていた。甲谷さんは、この公案の答えを得たのか。多分、もう確かめるすべはない。

(甲谷さんのALSの病状の推移は、少し変わっていて、ほぼすべての随意的動きができなくなっているが、不随意的動きは、とても多い。あくび、笑い、硬直などを繰り返す。強制的笑いは、とても多く、大きな音などには反応して、ダムの堰が一挙に崩れるように、爆発的笑いが起きる。叉、喉頭摘出手術をして、食道と気管は完全に分離されているが、呼吸筋の麻痺はほとんど起きていなくて、今のところ、呼吸器も装着していない)

甲谷さんは、死の不安を臆することなく語っていた。その死は甲谷さんにとって、個人的な事ではなく、全人類の死のようなものとも言っていた。
多分、この事は、甲谷さんが深く傾倒していた、仏教的苦の思想と通じる物がある。死は、誰にとっても避けられない。しかし、普通の人の死は、どちらかというと、不意に訪れるものだ。しかし、ALSという病は、少しずつ、確実にそれと面と向き合わされる。
死は、私達が知っているすべて、慣れ親しんできたすべてとの完全な分離。まったくの未知にただ1人、おもむかなくてはならないものだ。
その意味では、1人の死は、全人類の、叉、全宇宙の死とも言えるのかもしれない。
私には、死の不安、恐怖と、ALSの意思疎通の不可能な、完全な閉じ込め状態といわれているトータル・ロックド・インに対する不安・恐怖はほとんど同じものに思っている。なぜなら、両者とも、完全な分離、孤独、未知に対するものだからだ。

甲谷さんの今の平静さは、自然に訪れたものではない。
その過程では、本当にすさまじいものがあった。
それは、徐々に、目の動きがままならなくなってきて、文字盤による会話が難しくなってくる過程とともに起こってきたと思う。
言いたいことが伝わらない、言っても誤解される。内側に溢れてくる言葉、声、感情、エネルギーが行き場を失って、爆発的な、硬直、怒りの表出。ベッドが硬直によりガタガタと軋み、びっしょりになるほどの発汗。それによる身体の痛みは激しくなるけれど、それをどうすることもできず、ますますつのる不安と恐怖の増幅。それが、昼夜とわず、24時間連続で続くことも。ヘルパーも疲れ果て、お互いの軋轢がはげしくなり、鬱になる人や、辞めざるえない人が続出し、介護体制そのものも危機的な状態にもなった。
私は、その頃の甲谷さんの目が今でも焼き付いている。瞬き一つせず、まっすぐ私を睨み付け、怒りとも、嘆願とも、「溺れるー助けて」とも叫んでいる眼。

そのような時期を、どのように乗り切ってきたのか、よくわからない。
ただ、疲れ果てたのかもしれない。徐々に徐々に、激しい硬直も収まってきて、あるがままに委ねるようにってきた。
私は、そのような甲谷さんの変化を、なにか、外側に向いていた、内的言葉が、カラダのより深い層に溶け込んでいった、降り注いでいったような感じに思っている。
ある人の言葉を借りれば、カラダがALSを飲み込んでいったような感じに。
私には、甲谷さんは、ある種の死を通過したように感じている。

以前、まだ、病院入院時代に、「皆さんへの質問です。あなたが、ALSになったらどうしますか。」というメールをもらった。。
私は、とても、答えられないと思ったが、甲谷さんの真剣さに何も答えなわけにもいかず、苦し紛れに、禅問答を気取り、「私だったら、ALSを捨てて、生きます」と答えると、
甲谷さんから、「すばらしい答えですね」という返事が返ってきた。
考えてみると、今、甲谷さんは、そのような生を生きているのかもしれない。
生、死で二分されたものでなく、より深い生を。

甲谷さんにとっての公案は終わったのかもしれないけれど、私にとって、今、甲谷さん自身が、最大の公案の一つになっている。