甲谷さんが、ALSを発症し、割と初期の頃に綴っていた文章を纏め、2006年の2月の個展「一畳百色」で、絵と同時に会場で朗読された文章です。
「私」は誰か? who am I ?
「私」は誰か? who am I ?
実体の無い苦しみに、我執がまとわりつき苦しみは増していく。
根源の光とひとつになるのだ。それは今ここにおいてすでに実行できるのだ。執着
がその実行を妨げているのだ。
その瞬間を想えば、もう何もすることができないと分かる筈だ。すべてを委ねて、
ただただリラックスしよう。
がその実行を妨げているのだ。
その瞬間を想えば、もう何もすることができないと分かる筈だ。すべてを委ねて、
ただただリラックスしよう。
どこからか風が入ってきている。危機感を煽りすぎてもよくない。
痒いところが掻けないって、かなりの苦痛です。
正に人生は修行やナ。
正に人生は修行やナ。
ゆっくりと病状は進行している。「お変わりないですか?」なんてあいさつする
けど、変わっていく瞬瞬に直面する日々を送っている。
けど、変わっていく瞬瞬に直面する日々を送っている。
精神的には安定しているが、喋れなくなったことと、フィジカルな面で感情表現が胸の部分でカタルシスとなってブロックをつくっている。なのでたいして悲しくもないのに、大泣きしてしまったりということが時々起こるようになる。
御心のままに 南無阿弥陀仏ある意味、地獄だナ
御心のままに 南無阿弥陀仏ある意味、地獄だナ
肉体という苦の花を咲かそう
目に見えてからだが動かなくなるのを体験する日々、さらに死を強く意識することを瞬瞬の課題となる。
「苦悩は人と人を結びつける。何故なら人は苦悩を避けて生きることはできないの
であり、苦悩こそが他者の視点を得ることに繋がるからだ。苦悩とは最初の恩寵であ
る。」 病気になってからの「気づき」の奥から、この言葉を思い出す。
であり、苦悩こそが他者の視点を得ることに繋がるからだ。苦悩とは最初の恩寵であ
る。」 病気になってからの「気づき」の奥から、この言葉を思い出す。
病気になったコトで学ばされる「気づき」は
大変多い。それまでの日々の数十倍と言っても過言ではない。
大変多い。それまでの日々の数十倍と言っても過言ではない。
偶然などないと古の教えは言います無意味なコトなど無いと無
駄なコトなどないと古の教えは言います。私はこの病気になってそのコトの真実を学んでいる。
アナタ/ワタシ の無意識が、ワタシ/アナタを苦しめる。マダ続くの?モウ イイデズヨ!
タダ生きてるだけ。二度と会えないと覚悟して友を見送る
駄なコトなどないと古の教えは言います。私はこの病気になってそのコトの真実を学んでいる。
アナタ/ワタシ の無意識が、ワタシ/アナタを苦しめる。マダ続くの?モウ イイデズヨ!
タダ生きてるだけ。二度と会えないと覚悟して友を見送る
これからは帰る場所はもう無いと思って過ごした方が良さそうだ。今こうして病室で丸一日過ごす日々を自分に与えられた場所だと思って生きていくこと。ここでできることは何か? 寝返りが打てず、眠りが断続的になる今日この頃‐‐。
緊張の連続
虚
緊張の連続
虚
意識はいつも「今・ここ」
肉体(物質)にとことん下降した自我だからこそ、二元論的(唯物的還元主義的)世界を越えられる特権を手にしているとも言える訳で、その分大変と言えば大変な訳ですが、この時代に生きる我々に架せられた責務じゃないかと思う。
ぼくの場合は今そのことを病という形で味わっている。苦い味がしますが、最後まで残さず食べつくしたいと思っている。
ぼくの場合は今そのことを病という形で味わっている。苦い味がしますが、最後まで残さず食べつくしたいと思っている。
この病気が私個人の上に起きていることとは思えなくなったのです。正確に言うなら思えなくなったのではなく、「私(だけ)が苦しい」とは感じられなくなったことに寄ります。
今味わっている苦痛がなんだか「私たちの苦痛」のように感じられるのです。病気になり世界観はどんどん変わっていきましたが、ここにきて更に大きく変わってきた感じがしています。
今味わっている苦痛がなんだか「私たちの苦痛」のように感じられるのです。病気になり世界観はどんどん変わっていきましたが、ここにきて更に大きく変わってきた感じがしています。
普遍性(聖なるもの)の探求などといったことには全く関心がなく、ひたすら「私」の快楽の永続を求めて忙しくしている文化…。
だが普遍なこと(老い、病、死)は確実に、或いは“落雷のように”「私(エゴ)」をヒットする‥。
あぁ..ホンマに苦しくてピアスなんてモンじゃなかった(苦笑..)。胃カメラが入った瞬間、口から串刺しにされたように胴体が数センチ浮いたよ..。☆「く、苦しい~っ!」心の中で叫んでいる内にオペは終わりました。でも痛いのはその後がメインで、数センチ動かしただけで鈍痛がひどく動けない。生まれて初めて座薬を入れてもらって、トイレも行けず尿器でオシッコをしている状態でした(3日めからはトイレになんとか行けるようになりました。看護師さんって偉いですね。心から尊敬します)。
で、こうした肉体的苦痛は、精神的苦痛とどこが違うのかなぁ?などと考えました。 チベットの言葉には「危険が迫った時にどの程度の修行者であるかがわかる。」という言葉があるそうですが、まったくそれは言えますね(苦笑)。痛みの本当に強い時に、どんな思考が飛び交うかを観ることは自分の力量を見る上で大変役に立ちます。からだが調子いい時に瞑想気分に浸っているのと訳が違って、必死の状態ですることですから嘘がありません。肉体的苦痛の場合にはダイレクトに「今・ここ」での在り方が問われ続けますから(痛みが薄れるまで!)その意味ではとても瞑想的(!)です。「楽しいときには誰でも只楽しんでいる。苦しいときにも只そう在りなさい。」鈴木大拙の言葉を思い出す。
だが普遍なこと(老い、病、死)は確実に、或いは“落雷のように”「私(エゴ)」をヒットする‥。
あぁ..ホンマに苦しくてピアスなんてモンじゃなかった(苦笑..)。胃カメラが入った瞬間、口から串刺しにされたように胴体が数センチ浮いたよ..。☆「く、苦しい~っ!」心の中で叫んでいる内にオペは終わりました。でも痛いのはその後がメインで、数センチ動かしただけで鈍痛がひどく動けない。生まれて初めて座薬を入れてもらって、トイレも行けず尿器でオシッコをしている状態でした(3日めからはトイレになんとか行けるようになりました。看護師さんって偉いですね。心から尊敬します)。
で、こうした肉体的苦痛は、精神的苦痛とどこが違うのかなぁ?などと考えました。 チベットの言葉には「危険が迫った時にどの程度の修行者であるかがわかる。」という言葉があるそうですが、まったくそれは言えますね(苦笑)。痛みの本当に強い時に、どんな思考が飛び交うかを観ることは自分の力量を見る上で大変役に立ちます。からだが調子いい時に瞑想気分に浸っているのと訳が違って、必死の状態ですることですから嘘がありません。肉体的苦痛の場合にはダイレクトに「今・ここ」での在り方が問われ続けますから(痛みが薄れるまで!)その意味ではとても瞑想的(!)です。「楽しいときには誰でも只楽しんでいる。苦しいときにも只そう在りなさい。」鈴木大拙の言葉を思い出す。
肉体に対する認識は表層的な意味で、ずっとケンコーに生きてきた人には(!)認識し難いものではないかと、今のワタシは考えています。
肉体に捕われ肉体の快感のみにエネルギーを注ぎ込むような生き方をしているようであれば、当然人が肉体をもった意味など認識しようがないと思います。
「弱いが故に強い(からだ)」といいましょうか、そういう身体が心の深い層への認識から立ち上がって来る‥。
実感として今体感しつつあります‐‐。
肉体に捕われ肉体の快感のみにエネルギーを注ぎ込むような生き方をしているようであれば、当然人が肉体をもった意味など認識しようがないと思います。
「弱いが故に強い(からだ)」といいましょうか、そういう身体が心の深い層への認識から立ち上がって来る‥。
実感として今体感しつつあります‐‐。
「あなたが、もしALSになったなら」
皆さんにお聞きしたい質問です。
ニューヨーク大学にあるリハビリステーション研究所の壁に一人の患者さんが
残された詩
大きなことを成し遂げるために、
力を与えてほしいと神に求めたのに
謙遜を学ぶようにと 弱さを授かった
偉大なことができるように
健康を求めたのに
よりよきことをするようにと 病気を賜った
幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと 貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして
成功を求めたのに
得意にならないようにと 失敗を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いは すべて聞きとどけられた
神の意に添わぬ者であるにもかかわらず
心の中に言い表せない祈りはすべて
叶えられた
私は 最も豊かに祝福されたのだ
、、、
大きなことを成し遂げるために、
力を与えてほしいと神に求めたのに
謙遜を学ぶようにと 弱さを授かった
偉大なことができるように
健康を求めたのに
よりよきことをするようにと 病気を賜った
幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと 貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして
成功を求めたのに
得意にならないようにと 失敗を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いは すべて聞きとどけられた
神の意に添わぬ者であるにもかかわらず
心の中に言い表せない祈りはすべて
叶えられた
私は 最も豊かに祝福されたのだ
、、、
谷川俊太郎『やさしさは愛じゃない』より-
私のからだを見て下さい。 でもこれが私じゃありません。 私の心を探して下さい。 でもそれが私じゃありません。 苦しみだけが私です、 苦しみだけがほんとです、 遠くに遠くに神さまはいる、お顔はかすんで見えません、 遠くに遠くに神さまがいる、ひっそりひとりで立っている。
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