2014年1月8日水曜日

舞踏を巡って

 

舞踏については、これまでも、様々に語られてきました。
しかし、そのほとんどは、1960年代~70年代の、舞踏の黎明期といわれている時代から、活発な活動を経て、世界に「BUTOH」として、広く知られるにいたるまでの流れを語ったものです。
つまり、語られているのは舞踏の過去です。
今現在の視点から、舞踏が語られる事は、ほとんどないように思います。
確かに、その時代の舞踏を巡る情熱はすさまじい物であったと思います。肉体を巡る思考の深さ、多様で大胆な表現に多くの人が魅了され、何かそこには、その時代に生きている個々の実存の深部を衝く、荒々しくも繊細な、まったく新しい衝動を予感させました。

例えば、土方巽。天性の言葉の諧謔さ、暴力性と優しさを持って、自己と他者の肉体に分け入り、ダンサーの肉体をモノの気配に満ちた幽霊体として現出せしめ、又、衰弱体というまったく新しい、死体をも包括する身体観を作り上げました。
又、例えば、大野一雄。老いれば老いるほどその無垢性は輝き、無防備に世界と宇宙に差し出された手。世界の混沌をそのままに抱える仕草は、103歳で死してなお、伝説体して残っています。
又、例えば笠井叡。グルジェフ、シュタイナー、神道等の神秘思想と格闘し、思考と感性を闘争させながら、すさまじい即興舞踏を今なお続けながら、現在を常に切り開いている。その相貌は、天使性と、修羅性に満ち、透徹した目で、人を射抜く。

その他、数多くの多様な人々が、それぞれに独自な動きをしていて、それらに続く人も沢山います。
このようないわば、舞踏の巨人達を前にして、如何に、その人たちのやってきたことを継承・発展するのか。私自身、舞踏の過去の血脈の末端にいる事は、自覚しています。それだけに、これは、一つの課題です。しかしながら、私としては、その様な過去の人たちの偉大な業績を前にしても、舞踏は、まだまだ、端緒についたばかりなのではないかという思いが強いです。
「舞踊」ではなく「舞踏」。まったく新しい踊り、身体観。
当初、舞踏家が舞踏を名乗って、踊りだしたとき、そこにはまったく未知な海原に漕ぎ出る覚悟があったのではないかと思います。
止むに止まれぬ衝動。はぐれた身体の思い。囚われ、条件付けられたカラダ。カラダの深部にある炎。時間性、歴史、そして、近、現代の流れの中で、消費され、道具化し、兵士になっていくカラダに対して「否」!と叫ぶ声。世界と宇宙のすべてが知識として細分化されていく中で、それに抗って、我と我が身で、世界と宇宙に開かれ、それを理解し、包み、包まれたいという思い。
このような、衝動、思いは、過去の先達者に任せて済むことでしょうか。
私達1人ひとりの切実な思い、課題ではないでしょうか。

私は、「舞踏とは何ですか」と聞かれたら、簡潔に「カラダで踊るのではなく、カラダを踊るのが舞踏です。」と答えるようにしています。カラダを作品の、或いは何かの道具として、鍛え上げ、踊るのではなく、カラダそのものの謎に挑み、カラダそのものの途方もない景色を開き、普段、意識していなかった、カラダと、様々なモノとの秘かな繋がりを見出すこと。私が踊るのではなく、光や、空気、その他、森羅万象が踊っているような感覚。そのようなものが、私にとっての舞踏です。

ですから、私は、舞踏を60~70年代に、土方巽氏や、大野一雄氏を始祖として、始まった踊りの一つのスタイル、ジャンルではなく、遠く太古の時代から、密かな思いとしてあり続け、グローバルな知の世界が私達を蔽っている、この現代において、はぐれていくカラダの切実な叫び、願い事のようなものだととらえているのです。
カラダは永遠の未知です。未知なモノが未知なモノして現れる、それが舞踏だと思います。(私は、未知という言葉を既知と反対語として使っているのではなく、既知を超えたものとして使っています)

このように言うと、限定され、囚われた肉体を背負っている私達に、そんなことがほんとに可能なのかというような疑問も、自然と湧いてきます。
いわゆる舞踏は、その始まりの頃、このカラダを踊るということにおいて、その物質性を、名づけられぬオブジェとしてのカラダを、表現しようという傾きを強く持っていたように思います。裸でごろんと寝転がっているだけの肉体や、他の物質と等価に置かれている肉体や、奇怪で異様な物と化していく肉体として。
勿論、カラダは、オブジェにも、物資にもなりきりません。
しかし、カラダの物質性を自覚する事によって、反転するように、カラダの隠れていた、情動、意識、記憶、エネルギー等が写し出されるということがあると思います。カラダで無意識に自在に動いているときは、透明で見えなかったものが現れてくるということが。
肉体という牢獄から、脱出することを目指すような踊りではなく、その牢獄の(と思っている)肉体に積極的に入ること、そこに、舞踏の特異性があります。
かつて、土方巽さんとお会いしたとき、舞踏のそうしたあり方をトランポリンに例えておられたのを思い出します。深く肉体に入る事で、そこからの開放もあるのだということが、おっしゃりたかったのだと思います。(確か、ニーチェもその様なことをいっていたと記憶します。)

やはり、舞踏はこの深く物質に囚われている時代だからこそ、生まれた踊りなのでしょう。それは、他の表現ジャンルにもつながるものが多くあります。例えば、造形より、素材そのものの表現を追及する美術の流れや、音楽より、音そのものの表現を追求している音楽家などにおいて。
私は、これらは、物質性をただ肯定し、そこに留まるのではなく、云わば、その物質を踏み台にして、ジャンプする行為だと思っています。

さて、さて、現在2013年の暮れ。
舞踏の現在はどうでしょうか。
過去の勢いはすっかり失われ、世界に拡散して、もはや、コンテンポラリーダンスの特異な一部になってしまった。その様な言葉をよく耳にします。
そのとおりでしょう。
しかし、先に述べたように、舞踏を、日本という地に生まれた特異なダンスのスタイル、ジャンルではなく、現代に生きる私達のカラダの切実な願い事としてとらえると、別な言い方ができると思います。急激に風土が、壊され変質していった時期の混沌とした日本で、肉体の叫びのように生まれた舞踏は、数限りない人々に、見えない種のように受け継がれていったと。

いまでは、肉体という言葉は、あまり使われません。その代わりにカラダという言葉を、舞踏家でさえ、よく使います。肉体という、屹立した言葉ではなく、カラダという、より一般化した言葉を使うのは、舞踏家自身が、時代に屹立した行為を求めているのではなく、より普遍的で、皆の切実な声に答えなければと思っているからだと私は理解しています。私のカラダの問題は、世界の問題で、世界の問題は私のカラダの問題だと、感じているからだと。

そういう意味で、舞踏は、現在、より日常に下りなくてはならなくなっていると思います。
舞踏は、屹立した表現を追究してきました。しかし、そのために、日常の稽古のあり方や、日常のあり方そのものと、舞台表現が乖離してしまっていた部分も大きかったのではないかと思います。
私自身、ある舞踏集団に所属していた頃、基礎練習や、ショーダンスの練習等をさせられたものですが、それが舞台表現とどう結びつくのか、よくわかりませんでした。
それ以来、舞踏における日常の稽古の問題は、私にとって、数十年来のテーマになっています。私自身にとって、自分一人で稽古していても、複数で稽古していても、舞台で踊っても、同じような感覚で踊れる舞踏を目指しています。
私は、半ば冗談で、半ば本気で、「舞踏がどの学校でも、必修科目になればいいのになー」といってみたりします。勿論これは、ジャンル、スタイルとしての舞踏ではなく、我と我が身で、世界と自然に、開かれ、理解しようとする行為としての舞踏です。

今、「京都の地で、舞踏のフェスティバルというか、フォーラムというか、何らかの意義ある舞踏の集まりを持つことをしないか」ということに誘われています。
私は、もしやるのであれば、「舞踏の集まり」ではなく、「舞踏を巡って」の集まりの方がいいと思いました。なぜなら、舞踏の見えない種は、舞踏という、スタイル、ジャンルを継承している人々のみではなく、様々な人にまかれているからです。

過去、舞踏をやっていたけれど、今は違うことをやっている人、舞踏とは名乗っていないけれど、常に、思考の一つの中心において踊ってきた人、舞踏の大いなる批判者、まったく違うジャンルで、舞踏に大いに感心のある人・・・・、様々な人が集まれる場になれば、面白いと思っています。